いや、でも休むにも短かったのです(泣)
なのであまり読めてはいないのですが、友人の税理士から「本を読んでない人は語彙が少ない!自己啓発本ばかり読んでいても語彙は増えない!」と真っ当なことを言われたので、新書ランキングから適当に見繕い読んでおりました
1冊目
「無理ゲー社会」 橘玲著
この方はキャッチーなタイトルをつけるのが上手ですね つい手にとってしましまいます
内容は「楽天ブックスより 内容」
「人生の攻略難易度はここまで上がった。
〈きらびやかな世界のなかで、「社会的・経済的に成功し、評判と性愛を獲得する」という困難なゲーム(無理ゲー)をたった一人で攻略しなければならない。これが「自分らしく生きる」リベラルな社会のルールだ〉(本書より)
才能ある者にとってはユートピア、それ以外にとってはディストピア。誰もが「知能と努力」によって成功できるメリトクラシー社会では、知能格差が経済格差に直結する。遺伝ガチャで人生は決まるのか? 絶望の先になにがあるのか? はたして「自由で公正なユートピア」は実現可能なのか──。
13万部を超えるベストセラー『上級国民/下級国民』で現代社会のリアルな分断を描いた著者が、知能格差のタブーに踏み込み、リベラルな社会の「残酷な構造」を解き明かす衝撃作。」
ということです
現在の社会は一見平等にみえるけれども、それは「努力をすれば道は開ける」という前提になっている しかしこれは本当に平等なのか? 「全員の能力が同じ」であれば「努力の差は結果の差」となるけれど遺伝的な能力差(これを橘氏は「遺伝ガチャ」と表現している)や「努力ができる遺伝子を持っているか」どうかで人生が決まってしまう 橘氏の他の著書でも「能力のうち遺伝的な要因が50%、外的な要因が残りで家庭環境は、ほぼ影響しない 例外は人間関係形成のネガティブ要因ぐらいである」といい遺伝ガチャに失敗した人にとっては今の社会はディストピアであると伝えています
以前の社会のように「農家の子は農家、商人の子は商人」といった生まれで職業が決められていた時には、努力の差→能力の差→職業・収入の差、という構図は生まれなかった 今の観念から見ると自由が制限されているようにも見えるが、ある職業に就くことについて、能力の差でないということは本人の救いになっている面もあったのではないか?自由を求めた今の社会は不本意な職業に就き、安い賃金で働いていることは「自身の努力の結果」といわれてしまい、救いがないという側面もある
恋愛も同様で、昔は家同士のお見合いで1回もあったことのない人と結婚する、といった話もあったのだが、現代では自由恋愛が主流となり、男性は競争し、女性が選択するという生物的な性愛競争が発生してしまった そのため、性愛を得るためにも自身の遺伝的な能力・ガチャでレアを引かなくてはならない もちろん、女性も同様で、男性も1人しか女性を選べないので、男性に選ばれるよう遺伝ガチャに勝たなくてはならない
努力は報われる、というのは適切な能力ががある人の言葉なんですね 遺伝的なガチャで失敗している人には、ただ残酷な言葉になってしまうのかもしれません 遺伝によって能力が決まっている 努力には意味がない、なんていうと今の教育制度がひっくり返ってしまいますし(最近こんな本が増えている気がします…マイケルサンデル著「実力も運のうち」でも遺伝的な能力の差というのは「運」なので、実力主義が平等で公平であるとは言い難いのでは?と伝えていますし)
この実は遺伝ガチャの勝者がいう能力主義・努力主義が、勝者の傲慢を生み出すのでは?と思います… (最近の「生活保護を受けている人についての差別」をした人の発言をかんがえると、この「遺伝ガチャ勝者」のおごりが出たのかな?とも思ったりします) うーん